思考は現実化する

自分の潜在意識を書き換えるために、自分が学んだ事を整理しまとめています。

私が「ありがとう」と言う理由

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あなたは普段どんな時に「ありがとう」と言っていますか?

 

先日、コンビニで買い物をした際に店員さんに「ありがとう」と言うか?言わないか?がネット上で議論になっていました。

 

コンビニで店員に対し「ありがとうございます」 お客が会計後にお礼をするのは常識なのか? : J-CASTニュース

 

様々なところで話題になっていたこの件に関して、私ははてなブックマークで2つのコメントを付けていました。1つ目は、この問題を取り上げていたある方の記事へのコメント、2つ目は自分の記事のブックマークコメントを見てのコメントです。

私もコンビニやスーパーで「ありがとうございます」といいます。食べ物屋さんなら「ごちそうさま」。理由は特に考えたことないのですが、多分、ありがたいから、感謝しているからなんだと思います。(2018年2月18日)

私はぶっきらぼうだろうでも「ありがとう」といっているような気がします。もし感じの悪い対応でも「ありがとう」といえば、脳は感じが良かったと勘違いしてくれるし、誰も嫌な思いをしなくて済む気がするから。(2018年2月27日)

このコメントを振り返って、ふと思いました。「私はどうして「ありがとう」と言っているのだろう?」と。

私自身、普段何気なく「ありがとうございます」と言っているのですが、感謝ではなく惰性や利己的な理由で言っているということはないのだろうか。そんな思いが頭を過ぎったのです。

今回は、私が「ありがとう」と言う理由について考えてみます。

 

そもそも「ありがとう」ってどういうことだろう

「ありがとう」という言葉について、具体的に誰かに教えてもらったという記憶はありません。ですが子どもの頃、親に促されるまま「ありがとう」といううちに、なんとなくこういう時に「ありがとう」って言うのだなということが分かるようになり、そのまま現在に至っているような気がします。

大辞林 第三版の解説によると「ありがとう」とは

ありがとう【有り難う・有難う】

感謝の気持ちを表す言葉。感動詞的にも用いる。 「教えてくれて-」 「どうも-」 〔丁寧な言い方では、下に「ございます」「存じます」を付けて用いる〕

 とあります。漢字で「有り難う」と表記するように、本来の意味は「ある」ことが「むずかしい」こと。つまり「滅多にないこと」「あり得ないこと」「存在し得ないこと」が起こったときに神様を賞賛する言葉だったそうです。それが室町時代から、神様だけではなく人にも使われるようになり、今日の自分以外の他者に対して感謝やお礼の意思を伝える言葉になったそうです。

 

普段どんな時に「ありがとう」って言ってるのだろう

先にも述べた通り、私自身は普段さまざまなところで「ありがとうございます」といっています。

「コンビニ」や「スーパー」などのお店で買い物した時はもちろん、会社のビルで掃除をしていただいている清掃員の方、エレベーターの乗り降りを譲ってくれた方、仕事をご依頼いただいたクライアントや、仕事を仕上げてくれた協力会社の方、手伝ってくれた上司や同僚、そして自分の子ども。

買い物の際などは、店員さんより先に「ありがとうございます」といっている時もある程です。

でも、それってただ習慣化しているだけなのでは?本当に「感謝」しているの?ふとそんなことが気になりました。

 

その「ありがとう」は何に感謝しているのだろう

では、 私は何に感謝して「ありがとう」と言っているのでしょう。改めて考えてみると、どうも人に対して「ありがとう」と言っていないような気がするのです。

私の場合、例えばコンビニやスーパーなら「モノを売っていただいたこと」に、清掃員の方には「いつもきれいにしていただいていること」に、エレベーターなら「乗り降りを譲っていただいたこと」に、仕事なら「仕事をいただけたこと」「やっていただけたこと」「お手伝いいただけたこと」に。

どうも人ではなく「していただいたこと」に対して「ありがとう」と言っているような気がします。

 

これらの「していただいたこと」は、モノによっては一見、当たり前のように思えてしまうこともあるかもしれません。

例えば「コンビニ」や「スーパー」のようなお店なら、商売なのだからお金を支払ってくれるお客様にモノを売るのは当たり前というように。でも見方を変えると「そのお店が販売してくれるおかげで、私は生産者の所まで行かなくても様々な商品を入手できる」と思うのです。本当に有難いことだと思います。

自分一人では出来ることは限られているからこそ、社会はいろいろな役割分担をしながら支えあっていると私は思います。だからきっと私は、自分の代わりに「していただいている」ということに「ありがとう」といっているのだと思うのです。

 

利己的な「ありがとう」かも?

人にフォーカスしてしまうと、どうしても「ありがとう」と言いたくない気持ちになってしまうことが、私はあります。

 

例えば、ひどくぞんざいな接客の店員さんにフォーカスしてしまうと、とても「ありがとう」なんて言いたくないと思ってしまいます。そんな時も「していただいたこと」に目を向ければ(今日はムシの居所が悪いのだろうか)と思いながら「ありがとう」といって店を立ち去ることができます。(もっとも、次からは別のお店を利用するかもしれませんが)

 

例えば、あまり好きではない人に何かをしてもらった時、その人のことを考えてしまうと素直に「ありがとう」と言いたくない自分が顔をのぞかせます。そんな時も「していただいたこと」に目を向ければ、笑顔で「ありがとう」といえそうです。

 

もし、感じの悪い接客をされたり、恩着せがましい態度をとられても、それに対して「嫌だな」という気持ちを選択してしまうと、その後、しばらくその「嫌だな」という気持ちに囚われてしまいます。それよりは「ありがとう」とポジティブな言葉を言っておけば、自分自身も「嫌な気持ち」にならないで済むと思うのです。

 

でも、そんな「ありがとう」は、なんだか少し利己的な気もします。

 

私の特別な「ありがとう」

たぶん私は、誰かに素直に「ありがとう」というのが苦手です。昔から、持ち前の自己肯定感の低さから、自分に対して他の人が優しくしてくれたり、良くしてくれたりすると戸惑ってしまうこともありました。

 

「自己肯定感」と「承認欲求」 - 思考は現実化する

 

そんな私にも、今ではたった1つ、特別な「ありがとう」があります。それは自分の子どもへの「ありがとう」です。

子どもへの「ありがとう」は『存在してくれていることへの感謝』。ただ、いてくれることの「奇跡」に対する「有り難う」です。

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もちろん、洗濯を手伝ってくれたり、気をかけてくれることに対する「ありがとう」もありますが、そんなことがなくても、ただ無条件で「ありがとう」なのです。

 

こんな無条件の「ありがとう」を、私は子どもに出会うまで知ることはありませんでした。でも、今はこんな「ありがとう」があることを信じることができます。

なので、もしかしたら、この無条件の「ありがとう」を、いつか自分自身に向けることができる時がくるかもしれません。きっと、それこそが「自己受容」なのだと思います。

 

「自己受容」と「自己肯定感」 - 思考は現実化する

 

私が「ありがとう」を言う本当の理由は、私自身が救われるため。社会に「ありがとう」と感謝の気持ちを表しながら、自分自身の存在を認めることをしているのかもしれません。

 

あなたは普段どんな時に「ありがとう」と言っていますか?