思考は現実化する

自分の潜在意識を書き換えるために、自分が学んだ事を整理しまとめています。

「~しなければならない」という呪い〈認知のゆがみ〉

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呪いというと大げさかもしれませんが、私の潜在意識の中にはこれまで刷り込まれてきた様々な「枷」があると思います。

その1つが「~しなければならない(~すべき)」という考え方です。

今日は「認知のゆがみ」の1つ「すべき思考(should thinking)」について考えてみます。

それは本当に「~しなければならない」ことだったのだろうか?

 子どもの頃から、ことあるごとに、様々なことについて「~しなければならない」「~しなさい」「~すべき」ということを言われてきました。

 

「男らしくしなさい」

「お兄ちゃんだから我慢しなさい」

「遠慮しなさい」

私は、小学生の頃、クラスで1番背が小さく、どちらかといえば女子の方が大きかったので「男の方が強い」とか「男らしく」というのがどうも上手く受け入れられませんでした。

「お兄ちゃんだから」は叱られる時や、弟になにかを譲るときの定番のセリフでした。2歳下の弟と身長もほぼ同じで、場合によっては弟のおさがりの服を着ることもあった私は、そんなとき以外、兄らしくされた記憶はありません。

 

祖母や叔母などに「何かを買ってもらえる」ときや「家族で食事に出かけた」ときも、つねにそれとなく父の顔色をうかがって、一番欲しいものがあっても遠慮するようにしていました。

 

それらについて「どうして?」と質問しても「そういうものだから」といわれるか、怒られるばかりで、質問に答えてもらうことはなかったです。

(もしかしたら、今、訳の分からないまま、何かをさせられることが我慢できないのは、その反動なのかもしれません)

 

こうして「~しなければならない」という私は形成されました。

でも、それらの「~しなければならない」は本当にしなければならなかったのでしょうか。

私を縛る「~しなければならない」という呪い

何かをするときに「~しなければならない」という思いがどうしようもなく自分に絡みつくことがあります。

その「~しなければならない」という基準につねに合わせよう、合わせよう、として窮屈になってしまったり、出来なかった自分を責めて「自分はだめなんだ」と劣等感にさいなまれ自己嫌悪に陥ってしまったり。

 

さらに、行き過ぎた「~しなければならない」は、時に他人に向かってしまうことも。

自分の狭い価値観で「~しなければならない」のに、なぜ「~しないのか」と他人を非難する気持ちが芽生えてしまうのです。

 

そして、こう思ってしまうのです。

「自分にも、他人にも、寛容にならなければならないのに

「~しなければならない」の連鎖

本当におそろしいこと。

それは、私自身が子どもに「~しなさい」と言ってしまっていることがあるということ。

 

「気づかないうちに、自分の「制限思考」を押し付けてしまっている」

 

私は、自分で、自分の「認識のゆがみ」に気づき、そして認めなければならない。

 

(やりなおし)

 

私は、自分で、自分の「認識のゆがみ」に気づき、そして、自分自身に問いかける。

 

「どうするの?」

「どうするのが良いだろうか?」

 

「しなさい」を「どうするの?」に置き換えてみる

「~しなさい」といわれ、理由もわからず従ってきた。

理由を知りたかったのに有無をいわざず、主導権をとられていた。

それは時に「あなたのため」というもっともらしいセリフがついていた。

選択肢を制限されていた。

 

だったら、これからは、その「制限」を外して、私にも他人にも選択肢を提示しよう。

 

子どもにも、こう言おう。

 

「起きなさい」 ⇒ 「7時だけどどうする?」

「宿題しなさい」 ⇒ 「宿題どうする?」「今日の予定はどうする?」

「早く寝なさい」 ⇒ 「今日は何時に寝る?」

 

「早く起きる」のも「勉強する」のも「支度をする」のも、全部、子ども自身の課題なのだから、それらに私の「制限思考」を押し付けないようにしよう。

 

私にも、こう言おう。

 

「~しなければならない」 ⇒ 「どうする?」「どうしたい?」

 

そう質問して「~したい」という気持を優先しよう。

 

「~しなければならない」ということなんて、きっと、何一つないのだから。

 

 

最後までお読みいただき感謝いたします。

ありがとうございます。